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山内視弘お絵描き躁鬱人生

日々の出来事、闘病記、絵の事などをのんびりと。

絵と私⑤

自己紹介

絵と私、5回目。今回は短期大学後半。

 

一年次の終わりにやった絵画演習で良い評価を貰い、絵に対して少しだけ自信がついた僕は二年生になった。話が前後するが、二年生に上がる前に春休みがあったのだが、僕は自信にみなぎっていたので実家にはほとんど帰らず、大学のアトリエで自主制作に励んでいた。アトリエにはいつも僕一人だけ。たまに教授が来るくらい。ほとんど自分だけの空間だった。他に学生はいなかったので、僕は当時好きだったオアシスやニルヴァーナの曲を大音量で流しながら制作していた。

話が戻って二年生。この頃は自分が籍を置く大学に対する不満が強くなった。教授陣が作ったり、教えたりしていることがすべて「古臭い」と思えた。だから全く教授の意見は聞かなくなったし、そういう態度をとっていたので意見もされなくなった。「しなければならないことは自分で考えてやろう」これがこの時の僕だった。周りの学生は見る限りでは教授の意見を聞き、それに合わせて制作に取り掛かる学生が多かった。それではダメなのだ。勝手に、よくわからないけど、そんなことを思ってた。この頃の絵画の課題も「決められた枠組みの中で自由にやる」をモットーに滅茶苦茶にやった。気に入らなかったら消して描き直すし、教授の好みに合わせたくなかったので自分の勉強した手法などを取り入れて描いたりした。自主制作も、今思い出せばごみ同然のよくわからない現代美術っぽいものを制作していた。

 

二年生になってから数か月たったころ、僕的に大事件が起きる。僕の大学に会田誠客員教授として来たのだ。なんでも段ボール彫刻のワークショップで来たのだそう。僕は結構前から会田誠の事は知っていたし、エッセイなども読んでいた。これは参加しなければ、と思った。そしてワークショップ初日から参加した。この時期、大学祭の準備などもあり(自分は学祭実行委員だった)忙しい時期だったが、他の事はガン無視。会田誠との関わりを重要視した。

初日は珍しがってか、たくさんの学生が参加していた。皆、段ボール彫刻の制作というよりも会田誠とお話ししたいという感じだった。僕はというと、あまり会話はせず、もくもくと段ボールと格闘していた。日を重ねるごとに学生の人数は減っていく。一人、また一人と来なくなっていった。僕はできるだけ毎日参加した。そうしているうちに、会田さんの方から話しかけてくれるようになった。でも学生のころの僕は、あまり人と会話することが得意ではなかったので一言二言、会話するだけで終わっていた。今思えばもっと話しておけばよかった、と後悔している。でもいいこともあった。毎日ワークショップに参加している僕を見ている教授や大学関係者がいて、次第にそれらの人たちから話しかけられるようになった。大学に入ってからそのような人たちと関わることが少なかったので、正直に嬉しかった。それがより、モチベーションに繋がり、ワークショップや大学の課題、自主制作に対する熱が強くなった。会田さんにもそんな姿を見てか飲みに連れていってもらったりした。後半は名前で読んでもらえるようにもなった。

会田さんとはその後、連絡を取ったり、関わったりはしていない。正直、僕の事を覚えているかも微妙なところだ。でも、このワークショップでの出来事が僕にとって、大学生活での一番の思い出であり、今こうして絵を続けている動機にもなっている。

 

ワークショップが終わり、卒業制作が始まった。この頃はあまり記憶が無い。

卒業制作のコンセプトを考えたり、中間発表があったりと常に休みがない状態だった。この忙しい時期に僕は双極性障害になった。病気の症状で考えがたくさん出るのだが、まったくまとめる事ができず、何もかも手がつかない状態だった。次第に周りにいる人たちにも迷惑をかけるようになった。不眠が続き、心も体も限界に来たところで僕は自殺未遂を図った。これが決定打となり、入院。卒業制作は担当教授と話し合いの元、未完成での提出となった。今思えばなんて馬鹿なことをしたのだろうと思う。

 

入院生活はきつかった。閉鎖病棟で自由に出入りすることはできず、暇な時間がとても多い。

そんな時の唯一の救いが「絵」だった。

僕は病室に籠ってひたすら絵を描き続けた。紙はA4コピー用紙、たまにいらなくなったカレンダーなどを貰い、その裏に描いたりした。何枚描いただろう。入院生活が1か月半くらいだったが、たぶん1000枚くらいは描いた気がする。他に一切やることがなかったから集中できたんだと思う。辛かったけど、こんな経験なかなかできないと今は思う。

 

回復の経過も順調で退院。卒業式には出席できた。空白の期間ができてしまったため、みんなに会うのが気まずかった。でも、みんな暖かく接してくれた。担任教授からも「よくがんばった、よく耐えた」と言ってもらえた。

 

 

そして大学を卒業。就職が決まっていなかった僕は、とりあえずアパートを引き払い、実家に帰省した。