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山内視弘お絵描き躁鬱人生

日々の出来事、闘病記、絵の事などをのんびりと。

絵と私④

絵と私、4回目。今回は短期大学時代前半。

 

美術短期大学に入学し、僕は美大生になった。肩書だけはかっこいいが、勉強をろくにできないやつが美大生になるわけで、実際は大したもんじゃない。

無論、僕もそのうちの一人だった。

入学したての頃は何をしたらいいのかわからなかった。もともと美術が好きで美大に来たわけではなく、単純に絵が好きだったという理由で入学したので何を始めたらいいのかなんてわかるわけがない。いろいろ考えたが、もともと考えたり計画を立てたりすることが苦手なタイプの人間だったので、とりあえずサラサラとラクガキを量産していた。同時に、なんとなく「年上の人たちと関わらなくてはならないのだ、大学っつーのは」と感覚的に思ったので先輩と思われる人に片っ端にコミュニケーションをとった。それが良かったのだろう、入学して数週間して、仲良くなれた先輩方から「美大ではこんなことをするんだよ、だからこういうことを勉強した方がいいよ」といろいろ教えてもらえた。

とりあえず僕は現代美術に興味をもった。もともと古典的な美術が古臭い感じがしてあまり好きではなかった。図書館でいろんな作品集を見て、自分的にビジュアルとしてとっつきやすいものを探した結果、現代美術にたどり着いたのだ。そこから現代美術に関する本をぼちぼち読んだりして、重要そうな部分をノートにまとめて家で復習し始めた。「ふむふむ、現代美術はコンセプトが大事なのか」「現代美術と現代アートコンテンポラリーアートはそれぞれ似ているようで違うものなのか」などいろいろわかった気になって勉強していた。

 

そんな感じで過ごして、大学の実技課題が始まった。まずデッサン。石膏像のデッサンだった。僕は石膏デッサンが好きだった。理由は人体を描くことが好きだからだ。だからちょっと自信があった。さっそく授業が始まる。みんな静かに慎重に描き始めている。僕はというと、とても落ち着きのない描き方をしていた。何度も席を立ったり、ガタガタ音を立てたり、周りからしたら迷惑極まりなかっただろう。(この落ち着きの無さは今でも変わらない。)だけど描き進めるスピードは周りよりも早かった。だからなんなんだって話だけど。そして講評会。結果から言うと僕はクラスの中では中の中の上くらいだった。喜んでいいのかわからない微妙な採点だった。ああ、悔しい。

次は粘土造形の実技課題。煉瓦と荒縄を組み合わせ、それを粘土でそっくりに作るというものだった。この時、彫刻的なものは一度もやったことがなかった。だけど、自信はあった。理由は僕はプラモデルや工作を作ったりすることが昔から得意だったからだ。早速始まる。周りを見てみると皆、不器用に手を動かしている。僕はというと、自分で言うのもなんだが、かなりテキパキと進められた。教授が一人一人にアドバイスをして回っていたが、僕には特に助言をしなかった。そして終了の時間。講評会が始まる。一度、学生は教室から退出させられ、その間に教授が評価の高い学生の作品に丸を付けるという評価方式だった。採点が終わり、皆、教室に入る。そして自分の作品を見に行く。僕も自分の作品を見に行った。丸がついていた。赤丸が。教授からお褒めの言葉「非常に完成度が高いですね、何か彫刻の経験は?」皆ぞろぞろと僕の作品の集まってくる。デッサンの時と違ってベタベタに褒められて、僕はとってもハッピーな気持ちだった。

上の通り、僕は平面よりも立体が得意で強かった。でも、やっぱり絵を描くことが一番すきだった。だから自主制作はほとんど平面しか創らなかった。

 

一年生後期、コースわけが始まる。僕の通っていた美大は、いくつかあるコースから3つ選択し、その中から最終的に1つにコースを絞るというシステムだった。僕は結構迷った。僕は陶芸、鋳金、絵画の3つのコースを選んでいた。絵画以外、立体造形で、評価もよかった。でも僕は絵画を選んだ。絵が好きだという事で選んだ事ももちろんだが、3つのコースの演習を受ける際、絵画だけ、自分の中で向かう姿勢が違ったからといことがあったからかもしれない。

最初の絵画演習は自分の評価としては最悪だった。初めて絵画らしい絵の具の使い方を習った。「では、静物着彩を始めましょう」の教授からのGOサイン。立体の時と違い、どうしたらいいかわからなかった。とりあえず描き進める。どんどん色が濁っていく。画面が汚くなっていく。もう泣きたくなった。それで提出。あの時はひたすら死にたかった。そこから僕は着彩絵画の練習をした。農家の親戚から送られてきたリンゴや家にあったコップなどをひたすら描いた。しかし目立った上達を感じられない。だけど踏ん張った。上達を感じられないまま、絵画コースに所属が決まり2回目の演習がスタートする。課題は自分の自画像と静物着彩。絵の具は油彩かアクリル絵の具を使用するという条件だった。僕は、自画像は油彩、静物着彩はアクリルで描くことにした。目立った上達を感じていなかったので不安でいっぱい。でも描きだすしかない。もうどうにでもなれ!という気持ちで筆を走らせた。

やはり周りと比べると進行スピードが早い。皆3~4割くらいの時、僕は6割ぐらい完成していた。だけど、なんだか納得いかない。画面になんだか違和感を感じていた。我慢できなくなって、それまで描いていた画面を白に染めた。そしてまた、ゼロからスタート。

合計3回くらい白で塗りつぶしただろうか。演習も終わりが近づき、皆、最後の描き上げに入っている。僕はというと、またゼロから描き始めていた。教授からはさすがに「大丈夫?完成できそう?」と心配される始末。僕は「完成させます」と答えた。もう追い込まれていた。でも妥協は出来なかった。そこからはもう必死。飯も食わないでぶっ通しで描く、描く、描く。考えている暇もない、ひたすら手を動かした。皆が帰ってからもガリガリと筆を走らせた。

講評当日。壁にみんなの作品が並べられる。僕はみんなと自分の作品を見比べた。

客観的に見ても周りよりもかなりうまく描けてた。教授からも「最初の演習の時よりも格段にレベルアップしている」とコメントされた。

この時、初めて絵画の上達を実感することができた。

 

同時に、前よりも、より絵が好きになった。

絵と私③

絵と私、三回目。高校編だ。

 

高校の試験になんとか合格した僕は、入学したらやりたいことを考えていた。バイトをしてもいい高校だったので、バイトをしてお金を稼いで、好きな漫画をたくさん買い、たくさん絵を描こうと考えていた。しかし、入学早々中学校の時と同じように同じ高校に通っていた兄に、ハンドボール部に強制入部させられた。入学した高校のハンドボール部が県内でも1位、2位を争うほど強く、全国大会にも顔を出すぐらいの割と強豪校だったので、練習が死ぬほどきつかった。家に帰って来る時間も遅く、体中バキバキでとても絵を描く事なんてできなかった。

しかし好きな事なので描かないとストレスが溜まる。

いろいろ考えた結果、学校にいる間に描くことにした。僕は母親の仕事の関係上、朝早くに学校に到着していたので、ホームルームが始まるまで絵を描いた。僕は学校の勉強が好きではなかったので、授業中も当然、描いた。ただ、ノートだけはとった。後でテストに響くと思ったからだ。だが、授業のノートをとるのがすごく退屈な作業で途中で飽きてしまい、ノートの隅っこにラクガキをよくしていた。おかげで僕の高校の時のノートはラクガキだらけである。先生に提出しろと言われたときは焦ったものだ。普通に提出していたが。

高校2年生の時の学校祭の準備が始まったころ。学校祭イベントの一つとして、各クラス、ベニヤ2枚分ほどの大きさのパネルに絵を描きましょうというものがあった。僕のクラスで誰がそれをやるか、という話し合いで僕が選ばれた。僕は高校の時、こういう学校行事にはあまり参加したくなかったのだが、まあ、絵が好きだしやってみるか、という事で引き受けた。早速制作に取り掛かった。僕ともう一人、パネル絵を担当するやつがいたのだが、そいつにはほとんど筆を持たせなかった。雑務を担当してもらい、僕が一人で描いていく。自分の意地というか、他人に描かせたくなかったのだ。(このスタンスは今でも変わらない。僕は共同制作とかたぶん向いてない。一人で黙々とやるのが好きなタイプなのです。)パネルが完成し、提出。そこで知ったのだが、このパネル絵、コンテスト形式で順位を決めるらしい。そして学校祭当日になり、順位が発表される。結果は1位だった。あまり素直に喜べなかったけど、ちょっと嬉しかった。

高校3年生になり、僕は心の調子を崩した。それまでかかわっていた人ともほとんど関わらなくなり、学校で独りぼっちだった。教室に居づらかったので、こっそり抜け出してよく保健室に行き、絵を描いていた。この頃から僕は女の子の絵ばかり描くようになった。保健の先生から「どうして女の子ばかり描くの」と聞かれた時があり、「理想の女の子を描いてるんすよ」と答えていた。家でも絵を描いていた。この頃は家族ともほとんど会話をしなかったので、正直、絵だけが救いだった。ひたすら描く。描いて描いて描きまくった。絵もかなり上達した。この頃になると自分よりうまい絵を描く人は学内に居なかった。だから、なんだか張り合いが無くて面白くなかったな。

3年生になり、進路が決まってくる人がちらほら出始めた。僕はぎりぎりまで決まらなかった。そもそも就職したいのか進学したいのかすら決まっていなかったのだ。先生に呼ばれる。親も一緒に。いろいろ聞かれた。「やりたい仕事はないのか」「興味ある職種は」そもそも普通の仕事をしたくなかったので「就職はしたくない」と答えた。「じゃあ進学か」とりあえず「はい」と答えた。でも何を学びたいのかわからなかった。「お前は絵が得意だったな」と先生に言われる。「はい」と答える。「うちの卒業生で何人かこの短期大学を受けている。みんな合格はしていないが。絵も学べる短大だし受けてみたらどうだ」なんだか楽しそうだったので「はい」と答えた。それが秋田公立美術工芸短期大学だった。

そこから受験に向けてデッサンを始める。とりあえず実家からちょっと歩いたところにある絵画教室にいった。鉛筆の使い方などを教わり描き始めてみた。生徒は僕一人。先生も隣で同じモチーフを見ながら描いている。2時間ほどして、先生に終わりの合図を受け講評が始まった。先生の作品と僕の作品が並べられる。はっきり言って、その時は僕はデッサン超初心者だったが、先生よりも全然うまく描けてた。嬉しかったが、自分よりも絵がへたくそな先生に教わることなど何もないと思ったので、すぐに行くのをやめた。絵画教室に行くのをやめたころ、ちょうどいいタイミングで僕が受験する短期大学主催のデッサンスクールが行われることを知った。早速応募。受験までそこに通うことになる。そこでは、他の受験生よりもやっぱり描けてた。講師からの評価もよく、受験も問題ないだろうと言われた。しかし、自分としてはもっと上達したかったので「厳しくお願いします」と講師に伝えた。そこからがすごい。他の受験生と扱いが全然違う。毎回ボロクソに叩きのめされた。何度か心が折れそうになったが、耐えた。今思えば、あの体験が現在生きているなあと感じる。

無事、受験にも合格。高校の先生陣から「すごい、すごい」と称賛を浴びる。合格した短期大学がレベルが低かったのであんまりうれしくなかった。でも、美術系の短期大学に進学が決まり、「将来は芸術家かなあ」とこの頃、ぼんやりと考えていた。

 

 

今日はこの辺で。また次回。

絵と私②

絵と私について。

前回は小学生までをお話しした。今回はその続き、中学生編をお話ししよう。

 

中学校に上がった僕は相変わらず絵を描くことが好きだった。学校の方針で部活動に強制的に所属しなければならないというルールがあり、僕は美術部に入ろうと考えていた。しかし、家族は僕の意見はガン無視で結局、兄と同じハンドボール部に入部した。自分の好きな事とは程遠い、むしろあまり好きではない分野の部活に入ってしまったが、部活は部活、絵は絵。と、区別して絵は描き続けた。

中学生になると絵を描く人は絞られてくる。中学時代といえば思春期真っ盛り。絵を描くなどという陰キャラが好みそうな趣味は、できればしたくないものだ。だから絵を描くことを大っぴらにする人はこの頃からグッと減った。僕はというと、むしろ大っぴらにして描いていた。褒められることが自分にとって一番モチベーションに繋がっていたから。ただ、やっぱり中学生にもなると嫉妬心が芽生えてくる。僕も絵がうまいやつに対して嫉妬したし、逆に嫉妬をされているような発言もされた。逆にそれがやる気に繋がったが。

この頃は漫画のようなキャラクターばかりを描いていた。中学生になって、流行りのアニメや漫画を見るようになったので、その影響かもしれない。今は女の子のような絵を描くことがほとんどだが、中学の頃はゴリゴリのマッチョメンを毎日描いていた。あと、仙人のような老人を描くのも好きだった。男性を描くのが、この頃は好きだったのである。しかし、どれも完成した一枚絵などではなく、鉛筆やシャーペンで描かれた落描きばかりだった。当然色付けもしていない。できなかったのだ。

絵が好きだったので、美術の授業は好きだったし得意だった。他の教科はほとんど最低評価だったが、美術だけはいつも評価が高かった。一年次の彫刻の課題では町の文化センターに展示されたこともある。他のポスター制作の課題、似顔絵、ミクストメディアの課題でも周りから「すごい、すごい」言われていた。勉強もスポーツも得意ではなかったが、絵に関わることでは唯一賞賛を浴びることができたのである。

しかし、中学時代も自分よりも絵がうまいやつがいて悔しかった。ひたすら嫉妬しまくった。でも僕は嫉妬して立ち止まるタイプの人間ではなかった。むしろ「この野郎!」と、頑張るタイプだったのだ。だから嫉妬するたびにたくさん絵を描いた。それは今も変わっていない。

結局、自分よりも絵のうまいやつを追い越そうと頑張ったものの、追い越すことはできず、中学校を卒業した。

 

 

今日はここまで。次回は高校編。

それではおやすみなさい。

絵と私

他にいろいろとやることがあり、一週間ほど絵を描いていない。

前は毎日休みなく絵を描いていたが、考える時間が大切だと感じたので今は制作のペースをあえて落として、考えが蓄積してから描くようにしている。

絵の事を考えていると、絵と出会った時のことを思い出したりする。今日は絵について。絵との出会いから今までをお話しよう。

 

初めて絵らしきものを描き始めたのは、たしか幼稚園に入るか入らないかくらいの時だった。特に家族に教えられたわけでもなく、鉛筆でひたすら迷路を描いていた。できるだけ難しい迷路にしたくて、紙いっぱいになるまでちまちまと細かい迷路を描いていた記憶がある。なんでそんな物を描き始めたのか。今考えると僕が次男で、あまり家族から構ってもらえなかったから寂しかった事が理由だろう。

幼稚園にあがってからも絵を描いていた。僕はどちらかというと皆で遊ぶよりもブロックや絵を描いたりと一人で遊ぶことが好きだった。でも友達は居た。同じように絵が好きな子が居たのでその子と一緒に絵を描いたり物を作ったりしていた。その子がとても絵がうまい子で、アニメのキャラクターなどを模写している子だった。僕はその子にキャラクターの描き方を教わり、家で練習しまくった。この頃から人を描くことが好きになったのかもしれない。

僕の母親は仕事が終わるのが遅く、幼稚園の迎えはいつも最後。お絵描き友達はいつも先に帰ってしまう。寂しかったけど、先生と一緒に二人でお絵描きをしていた。だから楽しかったな。

毎日絵を描いていたので、当然上達する。次第に周りの子、先生から「絵がうまい、絵がうまい」と褒められるようになってきた。僕はうれしくて仕方なかった。うれしくてモチベーションは急上昇。もっと絵を描くようになる。(今でも褒められることが僕にとって、最大のモチベーションだ)

 

小学生に上がる。いろんな幼稚園や保育園から生徒が集まり、知らない人がたくさんいた。なんだか自分の絵を周りに見られるのが恥ずかしくて、こっそり絵を描いてた。でも、小学2年生の時だったか。何かの授業で、自分の手を見て描きましょう、みたいな授業があり、僕はとりあえず見たまんま描いた。

これが、僕が絵が大好きになったきっかけだった。

僕は周りよりも早く描き終わった。先生が気づいたのか、「どれどれ、見せてみなさい」と近寄ってくる。僕の絵を見る。

「なんだ!これは!」

僕は最初怒られると思った。でも違った。

「とてもすごい!こんなの先生も描けない!」

まさかのべた褒めである。そして僕の描いた絵を前にもっていって

「皆さん、山内君の絵を参考にして描きましょう」

 

めちゃくちゃ嬉しかった。絵を描いててこんなに褒められたことがなかったからだ。家族にも対して褒められたことがなかったので、もう、とっても嬉しかった。

「絵って、もしかしてすごいものなんじゃね?」

「絵描いてれば、人に喜んでもらえるんだ」

子供ながらにそう思ったのだった。

 

そこからは楽しくてしょうがなかった。もっとうまくなりたい、もっと褒めてもらいたい。僕にとって、絵を描く動機として十分だった。

小学校低学年の頃はドラゴンボールドラゴンクエストの模写をしていた。この二つの影響でドラゴンが好きになり、オリジナルのドラゴンを描いたりしていた。そして周りの同級生に見せて「すげえ!すげえ!」と言ってもらい優越感を感じていた。

校内のイラストコンクールに描いた絵を出したこともある。コンクールなので順位を決めるのだが、出すたびに賞を貰っていた。周りから褒められたり、賞を貰ったりしてこの頃は「自分は絵がうまいんだ」とかなり自信を持っていた。

 

ところが小学高学年になり、最初の挫折を味わうことになる。

高学年になり、ほかのクラスの子とも関わる様になった。そこで出会ったやつらがすごかった。自分よりもうまい絵を描くやつが数人いたのだ。

 

初めて負けたと思った。

自分はまだまだだ。へたっぴなんだ。

すっかり自信を喪失した。でも、負けたくなかった。だから、前よりも絵を描く時間を増やして努力したのである。

同時に人に余り絵を見せなくなった。模写も余りしなくなった。

想像で絵を描く事が増えた。

そして人物を描くことがほとんどになった。

 

 

今日はここまでにします。お休みなさい。

また、次回に。

自己紹介。ゆらり、ゆらり。④

自己紹介、4回目。今回は社会人になってからだ。この回で自己紹介は一旦締めとする。

 

短期大学をなんとか卒業できた僕は、親に焦らされ就職活動をした。自分自身としては、まだ心身の不調を感じていた。今思えば、親の言いなりになって行動したことが間違いだったのかもしれない。

一社目ですぐに内定をもらえた。そしてすぐに働き始める。一か月ほどたったころだったか。体調がみるみる悪くなり、退職した。そして両親に責められる。自分としては、ものすごく体調が悪かった、と訴えても聞いてくれなかった。むしろ、自分の意見を言ったことで余計、責められた。

次はアルバイトをした。偶然、受けたバイト先に小学校の時の友人が働いており、先輩方も自分と年が近く優しかったので半年ほど働けた。そしてまた就職活動をし、合格。しかし、あまりの仕事のきつさに耐えられなく4日間でやめた。そのあと、すぐにまた別の会社を受け、合格。3か月ほど働いたが、鬱状態がひどくなり、また退職。そのあとも受けて、受かって、働いて、精神的に不安定になって、退職して、また受けて、受かって、働いて、精神的に不安定になって、退職して、、、。

何度も離職を繰り返した。回数を重ねるごとに、感情のコントロールが効かなくなっていった。気分の上がり下がりが以上に激しくなった。最初は僕の事を責めていた両親も、これはやばいと思ったのだろう。ほとんど責めなくなっていた。そして、それまでも病院に通っていたが病院を変え、しっかりと病気と向き合うことにした。

 

現状、普通の人の様に会社勤めをするのは不可能だと思った。

今、自分ができることを必死に考えた。

 

何ができるのだろう。僕は。

 

自分が信じれるものは?

 

ずっと続けていることは?

 

いろんなことを考えた。

そして、現時点での答えがでた。

 

 

 

 

僕には、絵しかない。これしか無いんだ。

 

 

 

 

 

そして僕は、画家になったのである。

 

 

自己紹介。ゆらり、ゆらり。③

自己紹介三回目。短期大学時代について、ざっくりと書こう。

 

絵が得意という理由で美術短期大学に進学し、僕は一人暮らしを始めた。

初めての一人暮らし。不安もあったが、自由に自分の時間を過ごせるという事もあり、わくわく感の方が強かった。また、進学した短期大学が美術系ということもあり、自分と似たような人がたくさん居るのだろうと、想像し、心を躍らせていた。しかし、入学して1か月ほどたち、周りにちらほらとグループができ始めたころ。僕はどこのグループにも属しておらず、友達もできていなかった。なんでかはこの頃はわからなかったが、同級生とはあまり積極的に仲良くなろうと思えなかったのだ。代わりに、僕は先輩たちと積極的にコミュニケーションをとった。僕のキャラクターを先輩たちは面白がってくれて、よく飲みに行ったり遊びに行ったりした。その中の一人の先輩と付き合うこともできた。先輩たちと遊ぶようになってから、同級生とも少しずつ会話をするようになった。周りとは少し遅れて、短大生活が楽しくなってきたのである。

 

美術大学だったので当然、ものを作る。僕は成績で見れば結構まじめで優秀な学生だった。周りには、美術高校上がりの学生や高校時代美術部だった学生が結構いたが、それらの人たちよりもデッサンや立体の授業の出来はよかった記憶がある。初めての事でも小器用にこなすタイプの学生だったのだ。そして一年生後期に学科内のコースわけが行われ、僕は希望していた絵画コースに入った。美術的な絵画は全然興味がなかったが、事前に行われた絵画基礎演習の課題評価がよかったので絵画コースを選んだ。

絵画コースに入り、コースの授業が始まる。僕を含め、学生は七人いたが、僕はほとんど誰とも会話しなかった事を覚えている。ひたすら制作に集中した。ガリガリ絵を描いた。基本、教授の言ったことは無視して、自分で試行錯誤して絵を描いていた。次第に教授からはアドバイスされなくなった。でも、制作が好きだったので長期休暇の時も、実家に帰らずに大学のアトリエに毎日通った。

2年生になったあたりから、精神の不安定さが目立つようになる。同時に、生活のリズムがめちゃくちゃになっていった。とてつもない鬱の状態が続いたと思えば、ものすごい元気になったりする。ちょっとしたことで激怒したり、ぽろぽろと涙がこぼれたりする。不眠の日々が続き、3日間一睡もせずに活動していた時もある。決定打になった出来事は卒業制作が佳境に入ったころ。僕の精神はぼろぼろに壊れており、衝動的にその場にあった精神安定剤睡眠薬をすべて飲み、自殺をはかった。起きた時、僕は病院のベットで横になっていた。そして医者にこれまでの事を話し、こう告げられた。

 

「あなたは双極性障害です」

 

そのあと治療のために即入院。卒業制作は未完成のままで提出し、教授の計らいで卒業させてもらった。

自己紹介。ゆらり、ゆらり。②

前回の続きである。「高校病み視(のり)時代」について語る。

 

いろんな人から嫌われ、いじめに遭いつつも楽しくもあった中学生生活を終えた僕は、高校生になった。僕が進学した高校はあまり成績のよろしくない生徒が集まる普通高校で、僕もその一人だった(中学時代はほとんど勉強せず、成績は限りなく低空飛行だった)。入学と同時に、同じ高校に通っていた兄に半ば強引に中学生の時もやっていたハンドボール部に入部させられた。ハンドボール部に関しては県内でも1位2位を争う割と強豪校だったので、当然、練習はきつい。ついていくのが精一杯だった。

学校生活はというと、中学校の時のいじめられた教訓から、できるだけ周りにあわせてクラスのカースト上位のグループに属すように心がけた。しかし、入学から数か月たち、皆、緊張感が抜けてきたころ。僕は心の中によくわからない違和感を感じ始めていた。そしてそれが体の異常として現れる。

 

なんとみんながいる教室でいきなり過呼吸を起こして倒れてしまったのだ。

 

自分でも何が起きたのかわからない。いや、周りの人たちはもっとわからなかっただろう。そこから、なんだか僕の歯車は狂い始めた。(詳しくは「山内視弘暗黒高校時代」としてまたの機会に語るとしよう)

発作は頻繁に起こし、最初は気遣って心配してくれる人たちが大勢いたが、回数を重ねるうちにその数は減り、次第に人は離れていった。自分に何が起きているかわからないという苛立ち、周りに対しての苛立ちに悩まされ、次第に感情の起伏が激しくなっていった。高校3年生になると、校内で僕に話しかける生徒はほとんど居なくなっていた。唯一会話するのは先生と部活の仲間ぐらい。

孤独になった僕は趣味に没頭した。学校の休み時間は音楽を聴き、授業中はずっと絵を描いていた。学校のイベントは全然楽しめなかったので、まじめに取り組まなかった。

そして担任に勧められた美術短大を受験し、なんとなく合格して、卒業式は一切感動もせず、卒業し、短期大学に進学した。