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山内視弘お絵描き躁鬱人生

日々の出来事、闘病記、絵の事などをのんびりと。

1つに集中!

自己紹介

小さいころから、1つの事に夢中になる人間だった。

 

一度目の前にある物事に集中しだすと、周りが見えなくなり、熱中してしまう。

性格と捉えていいのだろうか。この感じ、今でも変わらない。

 

小さい頃は特に顕著に表れていた。

授業中、今日の給食が気になりだしたら何の迷いもなく席を立ち、献立を確認しに行く。板書をとらなければならないのに、絵を描くのに夢中で学習ノートにたくさん絵を描いていた。おかげで文字の代わりに、僕のノートは絵で埋め尽くされていた。

当時はゲームに夢中になっていた。年下のいとこがよく遊びに来ていたのだが、そのいとこがやっているゲームが気になり、強奪し、いとこの言葉を無視し、何時間もそのゲームをやった。

 

人付き合いにもこの性格が表れている。

僕は基本、自分が興味が無い人とは話さない。というか話せないのだ。

興味をもった人とは何時間でも話せる。その人の事をたくさんたくさん知りたいから。

でも、興味がわかない人との会話は、途端につまらなくなる。

そもそも何を話せばいいのかわからなくなるし、面白いことを話して笑わせようという気が微塵も起きない。

自分のコミュニケーション能力の低さには、我ながら嫌気がさす。これでは駄目だとわかっているのだけれど。

 

趣味の幅も狭い。

前は趣味をたくさん持とうとした時があった。でも、できなかった。いろんなことに手を付けようとしたのだが、何をしたらいいのか、頭の中がこんがらがってしまって結局何もできなかったのだ。

なので今は趣味は少ない。片手で足りる。音楽鑑賞、古本集め、散歩。たぶんこれくらいだ。

 

1つの事に熱中しすぎるので、物事の同時進行がとても苦手だ。

結構いろんな職に就いたが、「ああ、自分は会社勤めには向いてないかも」と度々感じさせられた。

会社というのは同時に幾つかの事を進めることが一般的だと思うのだが、自分は一個ずつしか進められないのでかなり苦労した。

「同時にやれ」と言われてやるはいいものの、頭の中では一個ずつしか処理できないので、慌てふためき、よく見落としをして怒られていた。

こんな感じだったので、僕はもう会社勤めは余りしたくない。

 

熱中しすぎる余り、当然思考の切り替えは大の苦手。

例えば、何か嫌なことがあったとしよう。普通なら「ま、いっか」で切り替えていけるだろうが、僕はそれができない。

一度その考えになったら、何か大きなきっかけが訪れない限りずっとそのことを考えている。

ポジティブな事なら構わない。でもネガティブな事だと、もう地獄だ。

負のスパイラルにどんどんハマっていき、被害妄想がどんどん膨らんでいく。次第に自分はこの世界に必要ないんだ、とか考えちゃって自殺することを考えちゃったりするわけです。すごくめんどくさい性格だ。

 

でもこの性格で、いいこともあった。

例えば僕が好きな絵など物を作ること。一つの事に対する集中の仕方はかなり自信がある。

まず一度始めると手を止めたく無くなる。結構な頻度で飯や休憩を忘れる。寝ることも忘れる。

何時間でもやれそうな気がするんだ。事実、短期大学の頃は3日間ほとんど寝ずに絵を描き続けていた。気持ち的には休むことは必要ない!という感じだ。

でも、気持ちはそうでも、体にガタがくる。実際不眠不休の代償はかなり大きい。何日も寝ないと異常な寒気や発汗、手足が小刻みに震えたりする。腹もめちゃくちゃ壊す。だから今は、もっとやりたい!という気持ちを抑制して、意識的に休むようにしている。

ほとんど休まなくても平気なので、作業量も結構多い。波に乗っている時は一日で30枚絵を描いた時もある。そういう時はイメージが沸騰した鍋の様に溢れかえってくるので、次から次へと描ける。楽しくてしょうがないのだ。

 

 

 

 

以前は、物事を同時に行えないことに、とても劣等感を感じていたが、今は逆に嬉しく思う。

1つの事に夢中になれる自分が今は好きだし、たとえ同じことの繰り返しだとしても、自分はルーティンが結構落ち着くので悪くはないなと思うようになった。

最近はやりたいことがちょっと増えたので、楽しい。

同時にはこなせないが、1つずつ、着実に進めていきたい。

 

 

一年後、どんな自分になっているのか、楽しみだな。

 

 

銀杏BOYZ、絵、僕。④

自己紹介 音楽

四回目。これが最後です。

 

 

短期大学を卒業し社会人になった私は、本当は就職なんてしたくはなかったのだが、親に口うるさく言われたので仕方なく就職した。絵は、描くと体調を崩すから描くなと言われ、描くことをやめざる終えなかった。短期大学を卒業してから一年間は筆を一切持たなかった。

仕事は全然うまくいかなかった。なのですぐやめた。やめたあとはバイトをした。バイトは飲食店でフルタイムで入っていたので、帰ってきたら寝て、起きたらまたバイトに行く日々。本当につまらない毎日。大好きだった絵も描けず、音楽も聴く余裕すらなかった。

半年ほどバイトをし、僕はまた就職した。実家からだいぶ離れた場所での勤務だったので一人暮らしを始めた。親の監視下から外れたので、やっと絵を描ける環境になった。久しぶりに筆をとり、絵を描き始めた。

一年も絵を描いていなかったので、かなり腕が落ちていた。自分が描きたいように描けない。とても悔しかったが、好きな事だし、他にやることがなかったのでコツコツと描いた。銀杏BOYZもこの頃からまた聴くようになった。

 

再就職先をやめた。そして実家に戻る。もう何度も辞めているので親はあまり言ってこなくなった。地元でまたバイトを始めた。この頃から絵を仕事にしていきたいという思いが強くなった。とりあえず、先人がどのような経緯で創作家になったか知りたかったので銀杏BOYZの峯田のデビューまでの経緯をもう一度調べた。それによって「自分もできる!」と心に暗示をかけた。同時に、自分が創作をする際に掲げるテーマを考えた。深ーく深ーく。なんで絵を描くのだろう、原点は、絵で何を伝えたい?などなど、考えられるだけ考えた。だいぶ考えが煮詰まったとき、気が付いた。「僕がやろうとしていることは銀杏BOYZにちょっと似ているな」と。

自分がずっと好きだったバンドと自分自身に共通点がある。とても嬉しい事だった。そこからは絵を描くことが楽しくて仕方がない。どんどんどんどん筆が進んだ。

イメージの雪崩。たくさん流れすぎて手が追い付かなかった。本腰を入れて描き始めてから一年間で、約800枚の絵を描いた。当然、創作するときのほとんどは銀杏BOYZを聴く。自分のイメージ、銀杏のイメージがうまくミックスされて絵画として表現される。

 

しつこいけど「山内視弘の絵画=銀杏BOYZ」なのだ。勝手にそう思っている。

 

銀杏に巡り合えたことは僕にとっての奇跡。多分、銀杏BOYZを知らなかったら僕の今の絵画の世界観はなかっただろう。

 

本当に、本当に。峯田和伸氏には感謝している。実際に会った時はないが。

 

 

 

 

 

今年の春に展示を二つ控えている。どちらも初の展示。昔は人に自分の作ったものを見せるなんて、自分のけつの穴を見られるくらい恥ずかしかった。

だけど、銀杏BOYZが僕に勇気をくれた。泥臭く、繊細な彼らの音楽。それを物怖じもせず、堂々と発表する彼らは僕に勇気と影響を与えてくれた。

 

銀杏BOYZ。これからも、勝手に追いかけさせていただきます。

 

初の展示、精一杯を振り絞っていきたいな。

 

 

 

銀杏BOYZ、絵、僕。③

自己紹介 音楽

3回目。引き続き「銀杏BOYZ、絵、僕。」です。

 

 

短期大学の卒業制作の時、病気のせいもあってか完全に自分の方向性を見失い、本来自分がやらなそうなコンセプトのもと、制作を開始する。当然、自分の芯が通ったコンセプト、テーマではないのでズブズブと泥沼に足を突っ込んでいった。気が付くと自身の半分以上が沼に浸かり、心身共に、もう耐えられないところまで追いつめられていた。

 

追い詰められた僕は、自殺を図る。

 

気が付くと知らない天井の下、僕はベットに横になっており、すぐには自分がなぜここにいるのかわからなかった。手足は力が入らず、トイレに立とうとしても自分の力では起き上がることもできない。ああ、僕はとんでもないことを仕出かしたのだな、徐々に実感した。

二日ほどたち、両親が来る。医師との四者面談の結果、入院することが決まった。僕は自分のアパートに両親とともに一度帰宅し、荷物をまとめて病院へ向かった。

 

早速入院生活が始まる。僕の好きな音楽が入ったスマートフォンは持ち込み禁止だったので、最初の数週間は非常に退屈な毎日だった。周りの入院患者は皆、お年寄りの方々ばかりで引っ込み思案な性格の僕はコミュニケーションをなかなかとることができず、かなり苦労した。なので、一人部屋だった病室に籠り、ひたすら絵を描き続けた。

 

数週間がたち、一泊外泊許可が下りる。僕はすぐさま実家に帰り、親を説得しウォークマンを購入してもらった。購入したウォークマンに僕はあるだけ音楽を入れた。外泊に出る際、看護師には音楽プレイヤーの持ち込み許可は得ていたのだ。やはり音楽が無いのは苦しい。耐えられなかったのだ。そしてその外泊の際、蔦屋にて銀杏BOYZのセカンドアルバム2枚を購入。そちらもウォークマンにぶち込んだ。

 

外泊が終わり、再び入院生活が再開される。僕は早速、ウォークマンの電源を入れ、銀杏BOYZの新アルバム通して聴いた。

 

 

 

涙が止まらなかった。ただ、ボロボロと、涙がこぼれた。自分はとんでもない罪を犯してしまった、という反省からか。涙が流れた理由はわからなかった。

 

 

 

 

約二時間、アルバム二枚を聴き終え、僕は絵を描かなければならないという気持ちになった。銀杏BOYZの新曲を聴いたとき、今までとは感じ方が明らかに違ったからだ。そして筆をとった。

 

 

 

この筆をとった瞬間、その時に、僕の絵のテーマ、世界観、核となる部分が出来上がったのだ。銀杏BOYZが、僕自身が、絵の扉を開けた瞬間だった。

 

 

 

入院中は非常におとなしく生活していたので予定よりも早く退院。僕は大学近くのアパートを少し早めに引き払い、卒業式まで実家で過ごした。卒業式も無事に終え、祝賀会では友達と楽しく酒を交わし、無事大学を卒業した。

 

 

秋田市から地元湯沢市まで帰る車中、僕は銀杏BOYZのアルバムを聴きながら帰った。

 

 

 

 

次回に、つづく

銀杏BOYZ、絵、僕。②

自己紹介 音楽

前回に引き続き、「銀杏BOYZ、絵、僕」です。

 

 

同世代に銀杏BOYZの理解を得られなかった僕は高校生になった。結果から言うと銀杏の認知度は中学校の時と大して変わらず、寂しいものだった。

 

高校に上がれば、音楽の趣味が大体固まってくる。

僕は銀杏のボーカル、峯田和伸が聴いていたバンドをいろいろ聴いたりしていた。ニルヴァーナ、グリーンデイ、ボアダムズ、など、なんだかいけ好かない周りとは違うんだと言わんばかりの選曲だった。

 

ちょっと時間が戻るが、中学校の時に銀杏の影響でギターを始めていた。あの頃は銀杏のスコアブックを買って、曲をコピーしたものだ。銀杏のコピーバンドをすごくやりたかったが、そもそも知っている人がほとんど居ないので実行せずに終わってしまった。高校に入ってからもちょくちょくギターを弾いたりしていた。ただ、部活が忙しく毎日は弾けなかったが。

 

時間が戻って高校生。この頃から絵を描くときに銀杏の曲を聴きながら描くことが増えてきた。だけど、高校生の時に描いていた絵は特にテーマも決まっていないラクガキばかり。ただ単純に、作業用のBGMがほしくて聴いていたのだろう。この頃はお小遣いをちょっともらえるようになっていたので、銀杏のムック本、峯田のブログ小説「恋と退屈」を購入した記憶がある。今でも大事に、僕の本棚に保管してある。

高校3年生の頃はほとんど誰とも会話をしなかった。まさに暗黒期。そんな時に僕に寄り添っていてくれたもの、それがミュージック、銀杏BOYZだ。朝早く学校に到着し、教室に入る。僕は一番窓側の自分の机に座り、イヤホンをつけ、銀杏BOYZの曲を大音量で聴いていた。授業と授業の合間の短い休み時間でも、聴いていた。とにかく休み時間になったら銀杏を聴いていたのである。教室は息苦しさがあった。でもイヤホンをするだけで、峯田の声、安孫子のベース、チン君のギター、村井のドラムスが僕を救済してくれた。それだけが僕の心の支えのような気がした。

銀杏BOYZに助けられながら、僕は高校生活を終えた。

 

美術短大に進学した。ここでもどうせ銀杏好きな人はいないのだろうなあ、と思っていたが、いた。数えるくらいしかいなかったのだが居たのである。さすが美大。わかっていらっしゃる。同じものが好きな人が居たので大学はやっぱり楽しかった。自分の好きな銀杏の話もできるし、絵の話、美術の話もできる。中学、高校に比べてとても居心地がよかった。

美大に入ってから絵のテーマを考えるようになった。テーマを考える時、僕は銀杏BOYZを参考にしてきたことが多い。DVD「僕たちは世界を変えることはできない」を何度も繰り返し見た。そこには銀杏BOYZの、峯田和伸の曲作りに対する姿勢や向き合い方、考え方が詰まっていた。峯田和伸というアーティストに僕は釘付けになり、崇拝、参考にしたのである。だから作品テーマも銀杏のようなテーマを扱ったものを創ったりした。ただ、僕は影響されやすい。美術業界の有名なアーティストを知れば、その人を参考にしたりもした。

 

 

今日はここまでにします。次回も「銀杏BOYZ、絵、僕。」

銀杏BOYZ、絵、僕。

自己紹介 音楽

僕は音楽を聴くとき、同じアーティスト、同じ曲を狂ったように何回も何回もリピートして聴く。だから特定の曲だけ、再生回数が数千回になったりする。こんな聴き方をしているので、音楽の知識は限りなく狭く、深い。そんな僕の狭い音楽の世界で、ひと際強い光を放ち、かつ、どす黒い闇を垂れ流しているバンドがある。そのバンドの楽曲は僕の中で、一番再生回数が多いことは間違いない。

そのバンドとは、「銀杏BOYZ」というバンドだ。

今回は僕と銀杏BOYZの出会い、そして銀杏BOYZが僕にどんな影響を与えてくれたかを書いていこうと思う。

 

僕が銀杏BOYZと出会ったのは中学1年生の時だった。それまで僕は音楽に関してはかなり疎く、親父がスカパーで見ていた古いアニメの主題歌やゲームサントラなどを聴いていた。流行りの曲などはほとんどわからず、周りの話には全然ついていけなかった。

そんな、音楽にあまり興味が無い僕は、出会ってしまったのだ。銀杏BOYZに。

僕には同じ中学に通う2個上の兄がいた。その兄が部屋(中学の時、兄と一緒の部屋だった)にいるときにいつも聴いてるとてもうるさい曲があった。それが銀杏BOYZだったのである。最初はただのやかましい曲だと思っていた。音量が高すぎて音割れがひどいし、何よりちょくちょく耳に入る単語が汚い。寝る時に流すもんだからたまったもんじゃなかった。でも、毎日聴いているうちに少しずつ歌詞が頭の中に入ってきた。そこで気づいてしまったのだ。

「なんか、よくわからないけど、すごくいい!」

ただ、うるさいと思っていた曲が、良曲に変わった瞬間だった。まず歌詞がいい。けしてうまい言語表現をしているわけでは無いのに、聴いていると自分の声に出せない気持ちを代弁してくれているような気分になる。ただうるさいだけだと思っていたサウンドも心臓を鷲掴みにされたような、ドキドキして興奮が収まらなくなる中毒性のあるサウンドへと変化して聴こえた。

そこからはどっぷり浸かっていった、銀杏BOYZに。学校にいるときは聴くことができなかったので、家にいるときはずっと聴いていた。その時あったのがファーストアルバムの「DOOR」と「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」だったのだが、何度もループして聴きまくった。歌詞が好きだったのでノートに気に入った部分をまとめたりもしていた。個人的に好きな曲を厳選したミックスアルバムも作ったりした。あまりに好きすぎて、学校の机に銀杏BOYZの歌詞を掘ったこともある。

ただ問題だったのが、世代が違うがゆえに知っている人がほとんど居なかったことだ。僕の兄の世代は結構、銀杏で盛り上がってた。しかし、僕ら世代はというと知っている人はほとんど居なかった。

銀杏BOYZ?何それ。」

みんなこんな感じだった。

銀杏BOYZ!知ってる知ってる!」

たまーに知っている人が居るんだけど、知っている曲を聴けばBABYBABYとか銀河鉄道の夜とか銀杏BOYZの前のバンドGOING STEADYから人気があった曲しか知らない。

違うんだ、違うんだよ。もっといい曲がいっぱいあるんだ。銀杏には。

いつもそう思っていた。

 

銀杏BOYZが好きがゆえに、中学の頃、迫害を受けたこともある。主にエグザエル信者達に。音楽の価値観がきっかけの抗争は怖いものだ。

 

 

今日はこの辺で。次回も「銀杏BOYZ、絵、僕。」です。

絵と私⑥

自己紹介

絵と私、6回目。今回は社会人になってから。

 

大学を卒業し、実家に帰省した僕は親に就職するように言われ、就職した。同時に「絵を描くことをやめろ」とも言われた。理由は「絵を描くとまた心の調子を崩しそうだから」だそうだった。最初はもちろん反発した。しかし、家族全員に「描くな」と言われたので、なかなか肩身が狭く描くことをやめざる終えなかった。

絵を描くのをやめ、仕事を始めたが全然うまくいかない。結局、短期大学を卒業し、絵をやめてからの一年間の間に3つほど職を転々とした。

職をやめるたびに家族からいろいろと小言を言われていたが、回数を重ねるうちになんだかどうでも良くなっていった。同時に、それまで家族から反対されていた絵も、また始めてみようと思った。

そして、卒業以来、約一年ぶりに筆を持つ。結果は、まあ、かなり感覚が鈍っていた。一年でここまで描けなくなるものなのか、と、かなりショックだった記憶がある。でも描かなきゃ感覚は戻らない。とりあえずコンスタントに続けようと小さな目標を決め、毎日取り組んだ。

 

 

再び筆を持って数か月がたったある日、あれは確か2015年の7月くらいだったか。丁度それまで付き合っていた彼女に振られたころ。今後の人生を決めるお告げのような夢を見た。

 

僕は自室にいた。ひたすら自分の部屋で絵を描いている夢。ただ黙々とガリガリ絵を描いている。そこに誰かが部屋に入ってきた。その人物はミュージシャンの椎名林檎だった。僕はかなり驚いていた。そこで椎名林檎が僕の絵を見て一言。

「君は絵がお上手ね。このまま描き続けなさい。そして人に見せなさい」

そう言って、彼女は僕の部屋から出て行った。

 

そこで目が覚めた。びっくりして目が覚めた。何だったんだあの夢は。何かのお告げか。いろいろ考えた、でも迷いはなかった。なんだか、理屈ではない信じてもいい夢のような気がした。

「僕は画家になろう」

その夢を見た、その日に、僕は決意したのである。

 

 

そこからは、絵に向かう姿勢がかなり変わった。とにかくたくさん描いて経験を積まねば、と。そのときは飲食店でフルタイムでアルバイトをしていたが、空いている時間にとにかく絵を描くようにした。

画塾にも通い始めた。バイト先が結構給料がよくお金に少し余裕があったので、自分への投資という事で毎月月謝を払い、デッサンをしに行った。とてもデッサンがへたくそになっていたが、あまり落ち込んだりはしなかった。むしろ、「今は下手でもこれからずっと続けていくのだから伸びしろはあるはずだ」と前向きにとらえた。

一番変わったのは絵についての思考だ。大学の時は卒業制作などでコンセプトやらテーマやらをねったりしていたが、何かの物まねのような、とってつけたようなものばかりだった。しかし、また絵に本腰を入れ始めてからこの点は明らかに、変化した。まず、自分を深く、より深く探ってみた。自分が絵をやり始めたルーツや興味があるもの、とにかく掘り下げまくった。これは就活で行われるような自己分析なんて生半可な物ではない。徹底的に自分を追い詰め、そして掘り返す。途中何度も鬱になったりした。だけど、ここが一番重要な部分だとわかっていたので、やめなかった。たぶん一生自分のすべてなんてわかる日なんて来ることは無いんだと思う。だけどやめちゃいけないんだなあ、と思ったからだ。毎日考え続けた。そしたら自分にとって、揺るぎの無いテーマが見つかった。

考えも変わった。それまではとにかくうまい絵を描こう描こうと思っていた。だけどある画家の個展を見に行った時から考えが逆転した。その画家は、滅茶苦茶うまい写実画を描いたり高等技術を持っているわけでもない。でもその人の絵を見ていると、なんだか言葉にできない自分の中の悲しさだとか、嬉しさとかに直に訴えかけてくる何かを感じた。そこからだ。うまい絵がすべてじゃないんだ、と考えるようになったのは。その画家は、僕の目標であり、師匠(勝手に)でもある。

そのようなことを僕は毎日続けた。すべては画家であるために。

 

 

現在、僕は宮城県仙台市に住んでいる。

当然、絵は描き続けているし、毎日絵の事を考え続けている。2017年の春には僕の初となる個展、グループ展がある。仙台に引っ越して来てからすぐに予定を立てたのでもう一年近くなるな。とても楽しみ。最近は絵以外にもやれることをどんどん増やしていこうと思っている。焦らず、少しずつ。たまに「絵を描いてます」「画家です」と言うと馬鹿にされたりするけど、そんなの関係ない!って頑張れる。貧しい生活だけど、自分が信じれることを続けられる、これだけで大満足。そのためなら貧しくても仕方ない!って思える。でもたまに贅沢もしたいけどね。

 

絵と私。これで終了。また絵については機会があったら書こうかな。

絵と私⑤

自己紹介

絵と私、5回目。今回は短期大学後半。

 

一年次の終わりにやった絵画演習で良い評価を貰い、絵に対して少しだけ自信がついた僕は二年生になった。話が前後するが、二年生に上がる前に春休みがあったのだが、僕は自信にみなぎっていたので実家にはほとんど帰らず、大学のアトリエで自主制作に励んでいた。アトリエにはいつも僕一人だけ。たまに教授が来るくらい。ほとんど自分だけの空間だった。他に学生はいなかったので、僕は当時好きだったオアシスやニルヴァーナの曲を大音量で流しながら制作していた。

話が戻って二年生。この頃は自分が籍を置く大学に対する不満が強くなった。教授陣が作ったり、教えたりしていることがすべて「古臭い」と思えた。だから全く教授の意見は聞かなくなったし、そういう態度をとっていたので意見もされなくなった。「しなければならないことは自分で考えてやろう」これがこの時の僕だった。周りの学生は見る限りでは教授の意見を聞き、それに合わせて制作に取り掛かる学生が多かった。それではダメなのだ。勝手に、よくわからないけど、そんなことを思ってた。この頃の絵画の課題も「決められた枠組みの中で自由にやる」をモットーに滅茶苦茶にやった。気に入らなかったら消して描き直すし、教授の好みに合わせたくなかったので自分の勉強した手法などを取り入れて描いたりした。自主制作も、今思い出せばごみ同然のよくわからない現代美術っぽいものを制作していた。

 

二年生になってから数か月たったころ、僕的に大事件が起きる。僕の大学に会田誠客員教授として来たのだ。なんでも段ボール彫刻のワークショップで来たのだそう。僕は結構前から会田誠の事は知っていたし、エッセイなども読んでいた。これは参加しなければ、と思った。そしてワークショップ初日から参加した。この時期、大学祭の準備などもあり(自分は学祭実行委員だった)忙しい時期だったが、他の事はガン無視。会田誠との関わりを重要視した。

初日は珍しがってか、たくさんの学生が参加していた。皆、段ボール彫刻の制作というよりも会田誠とお話ししたいという感じだった。僕はというと、あまり会話はせず、もくもくと段ボールと格闘していた。日を重ねるごとに学生の人数は減っていく。一人、また一人と来なくなっていった。僕はできるだけ毎日参加した。そうしているうちに、会田さんの方から話しかけてくれるようになった。でも学生のころの僕は、あまり人と会話することが得意ではなかったので一言二言、会話するだけで終わっていた。今思えばもっと話しておけばよかった、と後悔している。でもいいこともあった。毎日ワークショップに参加している僕を見ている教授や大学関係者がいて、次第にそれらの人たちから話しかけられるようになった。大学に入ってからそのような人たちと関わることが少なかったので、正直に嬉しかった。それがより、モチベーションに繋がり、ワークショップや大学の課題、自主制作に対する熱が強くなった。会田さんにもそんな姿を見てか飲みに連れていってもらったりした。後半は名前で読んでもらえるようにもなった。

会田さんとはその後、連絡を取ったり、関わったりはしていない。正直、僕の事を覚えているかも微妙なところだ。でも、このワークショップでの出来事が僕にとって、大学生活での一番の思い出であり、今こうして絵を続けている動機にもなっている。

 

ワークショップが終わり、卒業制作が始まった。この頃はあまり記憶が無い。

卒業制作のコンセプトを考えたり、中間発表があったりと常に休みがない状態だった。この忙しい時期に僕は双極性障害になった。病気の症状で考えがたくさん出るのだが、まったくまとめる事ができず、何もかも手がつかない状態だった。次第に周りにいる人たちにも迷惑をかけるようになった。不眠が続き、心も体も限界に来たところで僕は自殺未遂を図った。これが決定打となり、入院。卒業制作は担当教授と話し合いの元、未完成での提出となった。今思えばなんて馬鹿なことをしたのだろうと思う。

 

入院生活はきつかった。閉鎖病棟で自由に出入りすることはできず、暇な時間がとても多い。

そんな時の唯一の救いが「絵」だった。

僕は病室に籠ってひたすら絵を描き続けた。紙はA4コピー用紙、たまにいらなくなったカレンダーなどを貰い、その裏に描いたりした。何枚描いただろう。入院生活が1か月半くらいだったが、たぶん1000枚くらいは描いた気がする。他に一切やることがなかったから集中できたんだと思う。辛かったけど、こんな経験なかなかできないと今は思う。

 

回復の経過も順調で退院。卒業式には出席できた。空白の期間ができてしまったため、みんなに会うのが気まずかった。でも、みんな暖かく接してくれた。担任教授からも「よくがんばった、よく耐えた」と言ってもらえた。

 

 

そして大学を卒業。就職が決まっていなかった僕は、とりあえずアパートを引き払い、実家に帰省した。